本プロジェクトのきっかけとなった表皮水疱症の名前を広めるために尽力されている「表皮水疱症友の会」の会長さんからメッセージをいただきました。1人でも多くの方に知らせたいこと、私たちが伝えたいことがここに詰まっています。
「表皮水疱症との闘いを知ってください」 宮本恵子(NPO法人表皮水疱症友の会DebRA Japan代表理事)
希少難病、それは誰にでも起こりうる現実
病気というのは、ある日突然、なってしまい、そして、その痛みや辛さ、闘病のさまざまな困難さは、我が身に振りかかった当事者しかわからない、知らされなければ他人事ですよね。
希少難病は7,000種、国内の希少難病患者数は1,000万人
でも、皆さんは、ご存知でしょうか。世界には、患者数のとくに少ない希少難病が7,000種も存在していて、国内の希少難病患者数は1,000万人、なんと17人に一人は難病当事者ということを。数からいうと、誰にでも起こりうるのが難病で、決して他人事ではないのです。
そして難病というのは、その当事者だけの問題ではなく、両親、きょうだい、祖父母、親戚、友人はもちろん、そこに関わる医療従事者や障害福祉関係者、学校や職場等地域のすべての人々の理解と熱意ある協力体制がなにより必要となるため、逆に、その関係が成り立たないと、難病患者は病気と向き合う以前に、生きる意欲を無くしてしまうことが最も切ないことなのです。
“誰も知らない”難病、皮膚がはがれるという痛み
そういう私もまた、20歳までは生きられないと言われた、誰も知ることのなかった表皮水疱症をもつ当事者の一人です。
その病名も治療法も知っている医師がいなかった環境の中、当時は、ネット検索など情報を知るすべもなく、両親は目の前でキズだらけになって泣くわが子に、それはまるで腫れ物に触るように、真綿でくるむように、それは大事に必死に見守るしかなかったでしょう。
表皮水疱症と付き合うということは、
表皮水疱症は、皮膚が本来持っている、表皮と真皮を頑強に接着しているタンパク遺伝子が変異・欠損しているため、普通ならなんともないような、わずかな摩擦や刺激、寝返りをうつだけ、抱き抱えられるだけで、体中に水疱(水ぶくれ)ができ、皮膚が剥がれてしまうのが主な症状です。わかりやすい例えで言うと、火傷の2度3度と同じです。いま現在根治する治療法はなく、ほとんどは母親が水疱が出来れば注射針で潰し、感染しないように毎日入浴、洗浄し、ガーゼや包帯で保護する、1時間で済むこともあれば、傷が多くなれば2〜3時間もかかります。キズにくっついたガーゼやシーツ、下着等を剥がす時の痛みほど耐え難いものはありません。
さらに、こうした痛みだけではありません。皮膚の一部である爪や歯、髪の毛がなくなり、皮膚病は移る、といったいじめや偏見、いわれなき差別も受けます。口の中や食道の粘膜も弱く、固い物が食べにくいので栄養摂取が十分にはできませんし、食べるたび血を吐き、体力がなくて貧血や脱水を起こして点滴を受けることも日常的でした。栄養状態が悪いから、皮膚の治りも良くなりません。
私の記憶の中には、季節を問わず四六時中、身体中に包帯を巻いていたこと、真夏でも長袖を着て厚いタイツで素肌を隠していたこと、
母の口癖は、「動いちゃだめ」「走ったらだめ」「外で遊んだらだめ」、
私はこの家で一生、何もしないで飾り物のように生きるしかないと、子どもらしさもないまま育った10代でした。
それでも、母への避け難い依存と干渉から離れたかった20代、職場で出会った今の主人と、猛反対を押して27歳で結婚したことで、ようやく宮本恵子、としての新たな人生は始まった、と言えます。
"表皮水疱症を知らないまま"、皮膚ガンに直面して
知らないでいることはある意味、幸せであり、ある意味、無自覚な人生を送ることになります。私が表皮水疱症と診断されたきっかけこそ、この病気のもっとも深刻な合併症の一つである皮膚ガンの発症でした。ある日突然の痛みから始まり、受け入れてもらえる病院はなく、3回目に紹介されたのが北海道大学病院の皮膚科。そこで出会った慶応大学病院から赴任したばかりの清水宏教授こそ、表皮水疱症の著名な専門医だったことが、患者としての私のスタートとなり、今の私が生き延びている幸運でした。
現実逃避から難病というあるべき姿と向き合ってこなかった
原因も理由も分からないまま、ただただ皮膚や体が弱かったことで、誰よりも自分を愛せなかった人生に、清水先生の一言は、安心と自信と希望という光を射してくれました。
「宮本さん、表皮水疱症という病気と、じっくり、しっかり一緒に治していきましょうね」。
特別な子と思われたくない、人に迷惑をかけたくない、無意識の現実逃避から難病というあるべき姿と向き合ってこなかった不運。
もし、生まれた時、表皮水疱症だと診断してくれた医者がいたら、
もし、生まれた時、表皮水疱症だと診断してくれた医者がいたら、その病気の合併症の怖さを知っていたら、もっと適切な治療の方法を知っていたら、間違った民間療法に頼ることなく、痛い思いに耐えることもなく、この手の指がグーになることもなかった・・・それらがどれ程悔しく、情けなく、切ないことか。
その後、清水先生の受診を受けてから、皮膚ガンは4回発症し、今なお、定期的な検査は欠かせません。癒着してグーだった指を広げる手術も何度も受けましたし、飲み込みが困難だった食道をバルーンで広げる手術も2回受けるなど、私の生活の質が大きく向上した背景には、患者会を作った私の使命があったように思います。
今なお、孤独に闘う子どもたちのために・・・
希少難病の当事者と、家族にとって、もっとも必要なことは、専門医の先生といち早く出会うこと、同時に、同じ患者家族と繋がること、その必要をもっとも痛感している私が、国内で初めて単独の患者会を作り、私のような切ない思いを誰にもさせたくないと、この10年、全国各地で活動を続けてこられたのは、私自身の与えられた使命、生きる支えとなっているからかもしれません。そして後押ししてくれるのが、医療チームであり、友人であり、仲間であり、支援者であり、主人のサポートがあればこその患者会です。
患者会「DebRA Japan」が目指すのは、
個性と尊厳を失うことなく堂々と生きるための環境づくり
DebRA Japanが目指すのは、専門的な治療の情報提供と同時に、毎日を前向きに生きるための精神的なサポート、社会生活の合理的・社会的配慮を求める啓蒙など、難病を持っていても、おじけることなく、ためらうことなく、夢や希望を失わず、個性と尊厳を失うことなく堂々と生きるための環境づくりです。
私がこれまで体験してきた、切ない孤独、耐え難き病気の辛さ、悔しい偏見、いわれなき差別、医療不信・・・残念ながら、今この時代でも、全国各地で同じ場面は繰り返されているのです。
あなたに、社会に、知ってほしい表皮水疱症のいま
表皮水疱症の全国の患者推定数は、1,000から2,000人。NP0法人表皮水疱症友の会DebRA Japanは、2007年に発足してから現在、160家族までに膨らんでいます。いまだに知られることのない表皮水疱症、私たち患者と家族はまるで磁石で呼び合うように全国からの入会や相談が絶えません。医療者や福祉行政、教育現場の担当者からの問い合わせも少なくありません。
いまだに誰にも知られることのない表皮水疱症。
患者数の少なさから、当然専門医の医療者も全国で数人
1日も早い治療法の開発を願い、よりよい皮膚ケアの情報を広め、なにより尊厳と個性を生かす人生を育むため、
なにより一人で途方に暮れてしまわないように表皮水疱症に関わるすべての人の拠り所を目指し、一人でも多くの方々に知って欲しい。一人でも多くの方々に支援して欲しい。その思いは、ともに闘い、励まし合う仲間と家族によって、寄り添って応援してくれる支援者の方々のご尽力により、さまざまな形で、着実に広がってきています。
表皮水疱症を知っていただいた皆さまへ、
どうか、身近な人と、優しい気持ちを育んでください。
どうか、身近な人へ、あなたに出来る支援という手を差しのべてください。
この社会が一人一人の優しさの連鎖で、
笑顔にあふれた生きる力に彩られることを願って、私も仲間の活動を応援いたします。/宮本恵子(NPO法人表皮水疱症友の会DebRA Japan代表理事)