座面反転でオットマン&サイドテーブルになるラウンジチェア
初めまして。
担当の小椋と申します。
ラウンジチェアの開発を担当している市場株式会社 EC事業部の小椋と申します。まずは弊社のことを知っていただこうと思い、今回活動報告を投稿させていただきました。どうぞよろしくお願いいたします!
どんな内容がいいかなといろいろ考えてみましたが、まずは弊社のバックボーンである創業当時から話をさせていただければと思います。
0:焼け野原からの夜明け

先代:市場積
市場積商店:太陽算盤
市場株式会社の創業者である先代の市場積が満洲で兵役を終えたのは昭和20年12月でした。戦争の爪痕は深く、「ふるさとへ帰る夜行列車から見た都市は、何もかもが焼け落ち、広島駅も鉄骨が曲がって残骸となり、一面見渡す限りの焼け野原だった」と述懐しています。
戦地へ赴く前、積は兄と共同で「地球算盤」のブランド名で算盤を製造しており、帰郷した積は、再び兄と共に全国各地にあるまだバラック建ての文房具卸店に赴き販路を拡大していきました。まだ巷では米の買い出しの人多く往来している時代でした。
昭和25年10月、積は「市場積商店」として独立。「太陽算盤」のブランド名で妻・たつ子と2人だけの小さな船出でした。
そこから10年余り、算盤の売上は最盛期を迎え、産地全体で年間350万丁もの販売数でした。銀行などもから年間数千丁という注文があり、昭和34年8月に「株式会社市場積商店」として法人化し、社員は10人、契約していた算盤職人は30人を超えていました。
しかし昭和34年に計算機が登場しいち早く切り替えるのも最大の取引先である銀行でした。時代の流れになすすべもなく地域の職人や工場が次々と廃業に追い込まれていきました。
1:時代の変遷

そろばんの珠をつかった「珠のれん」の製造風景
「時代に取り残されないためには、どうすれば…」
そんな中、算盤の産地であることを活かした「珠のれん」の開発が進みます。のれんの桟や珠を通す紐、そして算盤として使っていた「珠」もすべて地元でまかなうことができました。当時テレビで放映されていた「お茶の間劇場」やドラマに珠のれんが登場したことも追い風となり大ヒット商品となりました。
珠のれんを製造しながらもインテリア製造卸業に転身することを決意した積は、地元の同業者や市に働きかけデザイン振興に乗り出します。デザイン先進国への視察、デザイン学校への協力依頼、デザインの公募など優れたデザインを企業が買い取って製造するスタイルをつくりあげました。当時、珠加工をしていた工場は木工工場へと転換していきました。
2:新しい風

先代:市場積と、2代目:市場博幸
堅実経営を目指すかわたわら、常に新しい挑戦を忘れない積の着眼点は珠のれんに安住する道を選ばず、鏡や一輪挿し、マガジンラックと、つぎつぎと新しい製品を開発していきます。この頃、現在の社長である市場博幸が入社します。学校を卒業したばかりの22歳。父が経営と営業のノウハウを教えてくれたのは、ただ一度だけ。ふたりで九州、名古屋を1日ずつ回り。「あとは自由にやれ。」それが引き継ぎだったといいます。
博幸は下請け工場から上がってくる商品に満足することなく、「木だけで、もっと何かつくれるんじゃないか」と考え、長年製品の主軸であった珠のれんや算盤から脱却して、木製小物家具に特化することを決意したのでした。
小物家具を海外でつくることを考えた博幸は、持ち前の行動力で道を切り開いていき、30代の頃には開発から生産管理、営業までの全体を切り盛りするまでになりました。その後も新たな販売チャネル、マーケットへと挑戦していきます。
一方で博幸は会社の基盤をつくってくれた算盤を後世に残すため、新しい算盤の可能性も模索するため算盤協会にも参画し、創業者の父が培った算盤の歴史を土台に「木」という資源を時代に合わせて変化させることで、これからもマーケットから学ぶ現場第一主義を貫きながら新たな挑戦を続けていきます。
私たちは「もの」ではなく、【物語】をお届けします。
いかがだったでしょうか?
私は入社して約10年になりますが、先代から脈々と受け継がれている「挑戦」というものをとても大切にしております。今回のクラウドファンディングへの参加もこのコロナ禍において、重要な挑戦の1つと考えております。算盤や珠のれんの時もそうだったように私たちは今回の「ラウンジチェア&オットマン⇆サイドテーブル」も単なるものではなく、たくさんの思いが詰まった物語をお届けしていきます。少しでもご興味が湧きましたらどうぞフォローを押していただき、一緒にプロジェクトを盛り上げていただければ幸いです!!よろしくお願いいたします!
創業60年の時に作成した動画の一部抜粋になります。