【未来への贈り物】My bottle 美~chura~|大人のタイムカプセル

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泡盛歴史ウラ話Σ(・□・;)

あまりに貴重だったから、その名も ”銭蔵” (⊃$∀$)

琉球王国時代の17世紀以降、首里王府は泡盛を御用酒として独占しようと、泡盛の製造を管理していました。中でも王府御用達の泡盛は出納を担当する役所で見分を済ませた後、役所の泡盛専用の蔵に納められていましたが、当時、お金より貴重とまでいわれていた泡盛を保管していたその蔵は、「銭蔵」と呼ばれていました。

徳川家光も愛飲した琉球焼酎、泡盛。

琉球は島津の支配下におかれてからは、江戸幕府に対して施設を派遣する「江戸のぼり」が義務付けられました。「江戸のぼり」には将軍の就任を祝す慶賀使と琉球国王の即位を謝す謝恩使があり、1634~1850年まで計18回行われた。毎回携えていく数々の献上品のなかに泡盛が必ず含まれていたことから、泡盛が外交に欠かせないものであったことがわかります。
江戸のぼりの様子

その魅力は、国際事件をも引き起こした。

アメリカのペリー一行が訪れた1853年、泡盛を飲みすぎて酔っぱらった水平のウイリアム・ボードが、民家に押し入って老女(渡嘉敷カマ)をてごめにする事件が起こりました。彼は住民に追われて、港に落ちて溺れ死んでしまいました。 やがてそれを知ったペリーは怒り、渡慶次カマをはじめとする六人がボードを殺したとして、身柄を引き渡せと要求します。 結局、渡慶次カマには八重山流刑、他の者も宮古流刑の刑罰が言い渡されて、事件は解決したと言われています。(しかし彼らに実際の刑罰が施されたかどうかは定かではありません)
ウイリアム・ボードの遺体は、泊(沖縄県)に外国人墓地に葬られている

ペリーも泡盛はお気に入りだった?(^^)

“ペリー提督日本遠征記”には晩餐会に出されたサキ(泡盛)についての記述があります。 それには以下のように書かれていました。 「醸造が古くて、まろやかに熟しており、きつくて甘味のあるドロッとした舌ざわりで、いくらかフランスのリキュール酒に似ていた」 (引用文献:「泡盛の考古学」 勉誠出版) 昔から、泡盛は国内外から評価が高かったようですね*\(^o^)/*

史上初!泡盛の海外生産。

戦時中、陸将軍はビルマ(現在のミャンマー)で供給する酒の現地生産を試みて、清酒やビールの製造を行ったがうまくいかず、1943年の末、気候的に適している泡盛を選んだ。沖縄から酒造家・技術者が赴き、仕込みや蒸留の施設を改造するなどして、泡盛の蒸留を成功させた。
ビルマ泡盛造りに出発したメンバー

焼け跡に見つけた、泡盛戦後復興の種

戦後、泡盛の復興には米軍から払い下げられた米を原料としたが、戦争で何もかも破壊されていたため、黒麹菌がなく、当初は何とイースト菌を使って酒を作った。しかし、幸いにも土に埋まって焼かなかったニクブク(製麹に使う、わらの茎で編んだムシロ)に黒麹菌が生き残っているのが見つかり、それを利用して泡盛の生産は再開された。
黒麹菌を守ったニクブク(引用:琉球新報)

店内には泡盛に関する資料があります‼︎

以前ご紹介した泡盛のルーツや、今回の泡盛歴史ウラ話は高嶺酒造所の店舗内に飾ってあります(^^) 訪れた際にはぜひチェックしてみてはいかがでしょうか(*^◯^*)
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