日本古典文学を題材に小説連載・映像化!『遠い昔、はるか彼方』の日本の話を広めたい
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西行の娘~Part5~
『その日』と『あの日』
一方、周囲の人間の誰一人として西行の娘が出家しようなど、知らないばかりか、そもそも、誰もそんなことを考えることすらしなかった。
平凡な一日の光景がそこに広がっていた。
だが、西行の娘は、突然「髪を洗いたい」と言い始めた。
これを聞いた育て親の冷泉殿は、首を傾げた。
単純に「妙だ」と思った。
「機嫌でも悪いのか。それとも男でもできたか。それにしてはまだ早いような・・・」
色々と詮索したが、特に思い当るものもなく、
「思い過ごしか・・・」
と気にかけないことにした。
成長したとはいえ、年頃の娘が駄々をこねたり、妙なことを言い出したりするのは、数多くの母親たちが目の当たりにしている光景である。
冷泉殿も一人の母として、『変わった娘・・・』と思いながらも、そこまで深刻に考えることはなかった。
「最近、洗ったばかりだというのに・・・おかしな子ね・・・」
冷泉殿のこのような発言にも、西行の娘は言うことを聞かずに、「髪を洗いたい」と頑なに言い続けている。
だが人知れず、彼女は左手の袖だけを強く握りしめていた。
そんなことは露知らず、冷泉殿はただ首を傾げるしかなかった。
結局、冷泉殿はため息をつきながらも『物詣(ものもうで)の前に身を清めておきたいということなのだろう』と思って、娘に髪を洗うことを許可した・・・
翌朝。
それは霧がかった空気を眩い日光の一閃が切り裂くことで、ようやく人々の生活に安堵をもたらすような景色であった。
その日光に心を奪われながら、つれづれなるままに朝の支度を整えている最中、娘が普段通りの足取りで、冷泉殿のもとにやってきて、云った。
「急いで乳母のもとへ行かねばならない用事がございます」
娘の落ち着いている様子を見て、冷泉殿は、すぐに牛車の手配をした。
それでも、一応尋ねた。
「どのような理由なんですか?」
「私にもわかりませんが、乳母が早く来いというのです」
娘に変な様子は一切なかった。
まっすぐ娘は冷泉殿を見つめていた。
普段と変わらず、『何か面倒な手続きか何かで乳母のもとに行かねばならないのだろう』と皆そう思った。
牛車の用意が整い、出発しようというときに、娘は牛車に乗る寸前で「しばし、待て!」と云って、冷泉殿の前に帰ってきた。
「あれあれ、どうしましたの?」
冷泉殿はそう云ったが、娘は答えない。
無表情であるが、それはたいそう凛々しい顔で、冷泉殿も思わず彼女の顔に目を奪われた。
そのまましばらく娘も冷泉殿も双方の顔を眺めた。
娘の瞳は透き通って、奥まで綺麗に見えた。
娘の黒く輝く瞳に、冷泉殿は自分がしっかりと移っているのを確認した。
相変わらず娘は無表情であった。
妙ではあった。
だが、これが何か意味があるように冷泉殿は思えなかった。
ただ、娘は冷泉殿をひたすら見つめる。
気が済んだのか、娘は振り返って牛車に戻って行った。
冷泉殿は『変な娘・・・』と思いながらも、それが自分の後の人生、一生涯の悔いになる一瞬になろうとは夢にも思わなかった。
牛車はゆっくり、ゆったりと進み始めた。
待てども、いついなくなるのだろうかと思うほど近くにいた。
だが、いつの間にか、そこから消えていた。
踏み固められた足跡だけが、土の道に一方向に伸びていた。
ただ、思った以上に早く、その痕跡さえも消えてしまった・・・