日本古典文学を題材に小説連載・映像化!『遠い昔、はるか彼方』の日本の話を広めたい
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西行の娘~Part6~
哀愁と怒りの狭間(はざま)
冷泉殿は、娘を乗せた牛車が行って、少ししてからようやく「妙だ・・・」と気にかかり始めた。
そのとき、まさか娘が自分の手を離れようなどとは思いもしなかった。
だが、嫌な予感を冷泉殿は次第に強く感じるようになった。
とはいえ、出て行った矢先に彼女の乳母のもとに行くのも忍びない。
しかし、彼女は一向に帰って来ない。
娘があまりに長く帰ってこないので、冷泉殿はしびれを切らしてその乳母のもとを訪ねてみることにした。
だが、娘の方は、「乳母の代わりに書いてくれと言われた手紙がまだ仕上がらない」だとか、「せっかく久しぶりに乳母と逢えたので、もう少し時間をください」だのと答えて、言い訳して紛らわせていた。
とは言え、言い訳などそう長く保てるものではない。
その日、冷泉殿は、人知れず、部屋にこもって、両手を合わせていた。
誰にも気づかれないように目に見えない仏像に、自分が抱く不安が現実のものとならないように祈り、また娘が戻ってくるか否かを仏に問うのであった。
もちろん、仏は何も答えない。
冷泉殿は、『ならば、どのような現実でも、ありのままに私の前に現せ!』と心で叫んだ。
すると、仕えている者が話しているのが聞こえてきた。
「知っておられるか?娘様はどうも、出家なされたそうだ」
「ええ!それは本当ですか?」
「なんだ、知らなかったのか?もう結構知れた噂となっているのに。もちろん、冷泉殿様を除いてだが・・・」
それを聞いた冷泉殿は、心臓を物の怪か何かに掴まれるような感覚を味わった。
一瞬であるが、冷泉殿の時間は停止した。
それは、全ての音、神羅万象の動き、光さえも届かない生命の域を超えた世界であった。
生きとし生けるものは、エントロピーという性質の中で絶えず流動的に機動しなければならない。
しかし、その生物の性を超えてしまった冷泉殿は、人間が人間であるために神より守られし制限の外に存在するが為に、心が急速に何かに蝕(むしば)まれるのを感じた。
危険を感じた彼女は、意識を、その人間の領域の外から素早くこちら側に戻した。
すると、とてつもない怒りと憎しみが湧いてくるのであった。
とにかく、冷泉殿は、屋敷の者たちを呼びつけ、その噂について知っている限りのことを話させた。
これにて、冷泉殿は、娘が出家したことを知ることとなった。
それがわかると、冷泉殿は、記憶を辿り、自分の感情とこの事実の審判をめぐる認識を求めた。
彼女はまずこう述べた。
「本当に・・・恨まれるに値する程、強情な娘だこと・・・どうして、そんな強い心を持てるのだろうか・・・やはり、武士という猛き者たちは、我々とは違う感覚を持っているのだろう。何せ平気で人を斬り、好んで血を見ようとする。その武士(もののふ)という血筋に生まれし者は、女性までも薄情でおぞましい存在だ・・・」
そう云って、冷泉殿は涙に暮れた。
ひとしきりに泣きとおすと、次に口から何が出るとも厭(いと)わず、あれこれと長く語った。
それは支離滅裂であり、感情の起伏も激しかった。
だが、この所作こそ冷泉殿の偉大さを物語る。
少なくとも、怒りに任せる、あるいはただひたすら悲しみに浸り世間をひたすら恨むという<思考の停止>をしなかったからだ。
しばらくして、早口で様々な見解を述べた後、彼女はため息をついて、冷静さを取り戻した。
彼女の思考は、論理という迷路の中を通って、ある終着点へとたどり着いたからである。
冷泉殿は、突然、大きくなった瞳を元のサイズに戻し、声のトーンを下げ、肩を窄(すぼ)めた。
そして、外の庭を見た。
その様子は何事もなかったかのように普段通り美しく、何の問題がなかった。
この景色は、彼女に人間という存在の<はかなさ>を伝えた。
同時に、現実に我々の生きる自然とは、無慈悲で、何もかもが普遍を得ることのできない<無常>という摂理の内にあるという法則(カルマ)を肌で感じた。
すると、冷泉殿は、遠い昔、娘の幼き日のことを思い出した。
五歳と云う若さでやってきたその娘は、愛らしくて、また一目で美しい娘になることがわかるほどであった。
その上、甘えん坊でいつも誰かの傍にくっついていた。
初めて逢った日も、彼女は西行に仕えている者の手を握っていた。
父母と永別したことを最初はわからない様子であったが、そのうち日が経つにつれて、そのことを感じ始めた彼女はさらに人と離れることを嫌うようになった。
冷泉殿は、養母として、片時も離れることなく、娘の面倒を見た。
たいそう可愛らしい子で、冷泉殿は娘との日々のことを思い出すと、思わずうっとりした。
それが、いつの間にか成長し、大きくなるにつれて、気立てもしっかりしていった。
加えて、近頃は様々な場面で、素晴らしい気配りや慎み深い言動、教養ある行動に趣深い感慨を述べるなど、随分と頼もしくなっていた。
冷泉殿も養母として、周囲に自慢できるほど娘に期待をかけ、同時にそれを誇りにしていた。
しかし、その娘が、想像もしなかった展開で、突如、永別することとなってしまったのだ。
これを考えると、また自然と涙がこぼれた。
すると冷泉殿の頭の中では、狂ったかのように何度も娘と別れた最後の瞬間が再現された。
彼女はこれを想うと、娘を責めたり、恨みはしても、どうしても嫌いになることができなかった。
また冷泉殿は、外の庭を眺めた。