日本古典文学を題材に小説連載・映像化!『遠い昔、はるか彼方』の日本の話を広めたい
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この矢をば~final~
時代が求めるもの
『このままこのような実力重視ではない官吏任用社会が進んでは、国の腐敗を招く。ここは一つ、私が見せ場を作り、社会風潮を変えてやろう。見ておれ。次の時代の天下を治める者はこういう類の人間だ』
入道はそう決め込んだ。
そうとは知らず、道隆はその後も入道に過剰なご機嫌取りを行った。
しかし、道隆の腹の中では『地位が上の立場』である事実から来る<密(ひそ)かな嘲笑(ちょうしょう)に至る思い>が潜(ひそ)んでいた。
自分では入道を手のひらで転がしている気であったのだろう。
これは大きな誤算であった。
父道隆は、その男を見くびった。
入道の『ここぞ』というときには、大胆かつ強引な手段をも厭わないその性分に気づかなかったのである。
入道は当初、目的こそなかったが、段々と道隆の<仮面>の裏側に気づきとその堕落的(だらくてき)な風習から来る態度に、自分の中で副次的に生まれる何かが蓄積されてゆくのを感じた。
突然、風がおさまった。
揺れていた木々は、今やピクリとも動かない。
その時間が来たことを入道は悟った。
そこへ道隆は
「道長様、どうぞお先に射てください」
と師殿の方が身分が高い身であることを知りながら、あえて差し置き、気を遣って身分が低い入道を先に優先させた。
「本当によろしいのでしょうか?」
「どうぞどうぞ」
入道はその無意味な気配り(あるいはそのように見せる振る舞い)に苛立ちを覚えながらも、的の前へと歩みを進めた。
入道は大きく息を吸った。
ちょうど風も止んだ。
入道の世界はすべて停止した。
その次の瞬間、鷹(たか)のように鋭(するど)い眼光が的に刺さった。
もうその目には他のものは映っていない。
入道は次の展開を想うと、ギラギラとした野心が抑えられず、一瞬だけ『にやり』と不敵な笑みを浮かべた。
そして、静かに入道は大股で構(かま)えた。
徐々に腕を開いていく。
それに伴い、弓はどんどんと楕円(だえん)に近づいてゆく。
その静けさの後に、轟音(ごうおん)が響いた。
的は見事に射られている。
打ち終わると、入道は満足そうに笑(え)みを浮かべた。
全く手加減もせず、見事に打ち抜いていく姿を見た道隆は、あまりの不作法さに呆れながら、同時に心の底で煮えあがる憤りを感じずにはいられなかった。
だが、しかし、息子の師殿もなかなか弓の腕前であった。
ひとまず、道隆は師殿に任せてみることにした。
「さて、伊周。お前の番だ。弓を射よ」
師殿はその場に立つも、いつもと違う雰囲気に若干飲まれていた。
弓を引く指は少し震えていた。
的が思うように定まらない。
そのまま矢を放つと、惜しくも的をかすめて的の外側右方向に飛んで行った。
しかし、これでようやく師殿は落ち着きを取り戻した。
一方で道長は全く動じない。
またも弓を引くと見事に的を射て見せた。
今度は負けじと師殿も大きく息を吸い、弓を構えた。
これは見事に的に命中する。
観衆の拍手が起こった。
だが、拍手も間もなく、入道は次の矢でまた的を射る。
次々に的は数多の矢が突き刺さった。
特に入道はほとんど的を外さずに射た。
結果が概ねわかると道隆はこれほどまでにない憎悪を腹に抱え始めた。
だが、側近に耳打ちされ、冷静さを取り戻す。
『なるほど、もう二本矢を射らせるのか。これで道長に御相子(おあいこ)にするよう仕向けることができよう。また、これにて御相子になれども、入道は我が方の藤原家の暗黙の命を受けることで、その見えざる壁を超えることができないという認識を民衆にさせることができる』
師殿が最後の一本を命中させて、拍手が鳴り響いた後、道隆は口を開いた。
「いやあ、両者とも見事であった。だが、せっかく盛り上がってきたのにこれでお終いというのも憚(はばか)られよう。そこでどうじゃ?もう二本矢を射ることにしようではないか。それでどうじゃ?入道殿」
これを聞いた道長はせっかく良い気分でいたところに水を差される形となった。
むしろ入道はこの話を聞くや否や、足の底から沸き上がる電流のような何かを全身に感じた。
激昂寸前の自分を押し殺し、彼は静かに道隆の方を向いた。
「良いでしょう。承知致しました」
道隆の口元だけが笑っている邪悪な笑みを見て答えた。
道長も残りの二本の矢は「あえて外せ」という意が含められた命令のようなものを感じ取った。
しかし、相手が悪かった。
これから天下を取ろうとする闘争状態の人間に『わび・さび』などといった上品な礼儀のようなものは通用するはずがなかった。
むしろ無礼でも何の意味もなかろうが、全ての障害物や困難は乗り越えなければならないという自分で課した一種の宿命のようなものを入道は感じていた。
またこの自分で感じ取っている宿命が正しいものか、仏に尋ねたい気持であった。
そのとき、道長は「これだ!」と思った。
むしろ天命に尋ね、それを当てて見せることで世間と世論に自分が天下を取るものだというプロパガンダに似たようなものを植え付けることができる絶好の機会であることに気づいたのだ。
彼は大きく息を吸い、天を仰ぐと、また大股の姿勢になった。
入道は仏に宣誓するための間を設け、心を清めた。
そして口を開いた。
「藤原道長の我が血筋が天皇・皇后になるべきに相応しい血筋であるならば、この矢よ、当たれ!」
そう言うと、南院にいた観衆はどよめいた。
ただそのどよめきの声が響く前に、雷鳴のような音を立てて矢は的に刺さった。
特に当たった場所はど真ん中であり、これほどまでにないほど絶好の機会をものにしてみせた。
南院の観衆は言葉を失った。
道隆は、まさかの道長の言動に動揺し、
「伊周、はよ射ないか!」
と不合理に叱責を浴びせた。
これを受けた師殿は明らかに場の空気を持っていかれた状態を感じ、ホームゲームであるにも関わらず、観衆が皆敵のように思え、あたかもアウェーゲームのように感じていた。
また事の事態が事態だけに、師殿も動揺を隠せず、まるで集中できない。
弓を引く手は震え、心も穏やかでなければ、的も定まらない。
結局、当てずっぽうに放ち、矢は的をかすめすらせずに明後日の方向へ飛んで行った。
観衆がどうにかフォローをしようとしている最中、
道長は弓を構えて、すかさず言葉を叩きこむ。
「我、藤原道長が摂政・関白に相応しい者であるなら、この矢よ、運命に従いて当たれ!」
そう言うとまた観衆は目を丸くして口を開いた。
だが、次の瞬間、矢はまた同じ場所、的の真ん中に「ズドン」という音とともに突き刺さり、もはや的を打ち抜く寸前という様子であった。
的はその衝撃で振り子のようにゆらゆらと揺れた。
道隆はせっかくの気遣いを台無しにされ、また道長の不作法さと人間の器の小ささに呆れながらも、ついに腹から湧き出る怒りの衝動を外にぶちまけ、激昂した。
師殿が弓を構えようとすると、
「何をしてるんだ!なぜ射ろうとする?もうやめだ!もう射るな!」
取り乱した様子を見て、南院ではもう続行することができない空気を感じ取り、観衆は終わりが告げられることをただひたすらにじっと待った。
道長はその様子を横目に弓を片して、その場を離れた。
そもそも道長は『左京の大夫』と呼ばれるほどの民衆には知られた弓の達人であり、また弓を好んでいた。
日々、好んで弓の鍛錬に励む道長にとって、伊周に勝つことは競う前からわかっていたことだった。
貴族の催す行事とは言え、その程度の腕前ではその程度のことなのだろうと一瞬の落胆を覚えながら、道長は帰途についた。
車から見る景色は、相変わらずの光景で、南院で騒動が起きたことなど知らず、鳥はさえずり、木々はそよいでいた。
『少しやり過ぎたかな・・・』
と道長は少しの反省と後悔をした。
だが、行き交う光景はいつもと何も変わったものはなく、道長の反省も後悔も無常に消え去っていくように感じられた。
『きっと世の中とはこんなもので、いつか自分が天下を治めても、その影響を受けるのはごく僅かでその他は民衆でさえも風の噂程度にしかならないだろう』
と思うと入道は多少の憂いを覚えた。
しかし、
『それでも私は天下を取るのだ。それが私の宿命であり、野望だ』
見つめていた手のひらを閉ざし、拳を強く握った。
風は相変わらず強く、入道を乗せた牛車はいつも以上に力強く一歩一歩、自分の御殿へと歩みを進めた。