高島おどりを盛り上げて、高島音頭を未来に繋ぎ続けたい!

高島おどりを盛り上げて、高島音頭を未来に繋ぎ続けたい!

【コラム・高島おどり応援団】アーティスト・チャンキー松本さん

写真:川島小鳥

応援メッセージ

「現代の祭り」 地方では高齢化がすすみ労働力となる若者が都市へ流失し、地域は弱体化がすすんでいる。若者が少なくなれば集落は老人が増え、空き家も増え、そういうあなぼこ状態が集落を老朽化させていく。 ただもうずいぶんと前からそういう問題が言われ続けてきました。わたしの田舎でもある香川県でも瀬戸大橋ができ、交通の便がよくなり、そうなると人は大阪、神戸などの都市へといき、地元の商店街が朽ちていきました。さらにはインターネットが商品の流通に大変化をあたえました。流通や社会のシステムの大きな変化に人の求めるものも変わっていくのでしょうか?その変化も実は人の暮らしを楽しくしたい、心地よくありたいを求め、さらなる変化を続けているのです。 「飢えて死ぬ」ことはない豊かな日本ですが、人の心はどこか不安な空気がながれています。この社会の中で、人の心はさまよい続けています。心をつなぎとめる、その何かを求め、生きているのが人かもしれません。娯楽というビジネスは「より楽しいもの、新しいものを」求めて都市で急速に育ちました。アニメ、マンガなどは日本文化に新しい風をながしこんでいます。テレビ、ネットなどのメディアの力は人の美意識を変えています。あるいは世代間では文化や知識の乖離がすすんでいるとも言えます。 ただ個人の「ここちよさ」ばかりを求めすぎると人は孤立します。都市ではそういう「ここちよさ」が保てる場ですが、都市であっても小さなコミュニティーが自然と生まれています。人はどんな環境であっても、なんらか人とのつながりをもとめます。これだけSNSやラインが普及することも、その証拠でしょう。 コミュニティーが生まれればそこで協力しあって、なにか共同でできることを望みます。「みんなでキャンプにいこう」とか、「ライブをしようとか」そういう小さな祭りを起こそうとします。それはきっと仲間たちとの思い出をつくり、今以上につながりを感じたいと思うのでしょう。コミュニティーの結束を強める気持ちが「小さな祭り」を生み出しています。 「祭り」の発祥は「宗教儀式」でした。神話の力がまだ色濃く残っている頃、人は神様を楽しませたり、神様へささげたり、それが儀式となっていきました。地域の祈祷師やシャーマンが儀式をまとめていた時代もありました。やがてそこに宗教が伝わり、神社や仏閣が地域をささえる場となっていきました。各家々では、先祖を供養し、その土地を守ることが家の長に任された任務でした。家のつながりが個人よりも重く存在し、村という地域は強い結束の中、その中心に「祭り」があったのです。 家では火をおこし火をくべるための「いろり」が真ん中にあり、そこに家族が輪になって暮らす姿がありました。もっと昔であれば、星空の下で夜の恐怖を少しでも和らげるために「火」をおこし「火」を囲み、人は家族や集団で生きていました。ときにみなで「輪」になって唄ったり踊ったりしたことでしょう。「お盆」という儀式は先祖を供養し、感謝し、家の安全を祈願する祭りです。さらに「踊る」ことで供養するというものが「盆踊り」です。一遍上人の「ねんぶつ踊り」の広まりが「盆おどり」の発祥だとも聞きます。踊ることで「先祖を供養する」という考えを広めた一遍上人はすごいけど、人はもっともっと前から「暮らし」のなかで「見えない恐怖」から逃れるために祈り踊っていたのです。 祭りからはあらゆる芸能、芸術がうまれました。現代でもそれらは受けつがれています。ボクらは歴史から切り離すことはできません。遺伝子のなかに血のなかに、祭りの歴史がながれています。神事ごとからの祭り、地域のつながりを強めるための祭り、現代はアーティストが触媒になってはじまる祭りがあります。アーティストという存在が地域に刺激をあたえ、「つなぐ」という仕事をします。人とのつながり、地域と訪問者とのつながり、あの世とこの世など。シャーマンときくとどこかおどおどしいものを感じますが、その存在は「離れたものをつなぎ、そこから新しい力を得る」パイプ役のような仕事だったと感じます。その仕事を現代はアーティストが担っているのです。 折口信夫さんが「まれびと」という存在を書いています。神様はその地域の内にいたのではなく、外からやってきたのだということです。地域おこしでも活躍するのは「よそもの、わかもの、ばかもの」だと言います。暮らしの安定は心を平安にしますが、その平安が祭りにまで浸食すると、祭りは活気をなくし、衰退していきます。やはりそこには外部からの刺激が祭りをあるいは地域を活性化させています。 みながある時にはリーダーになり、あるときにはサポートする、この循環はおもしろい現象です。事ありきで役割を変化させることは、地方のコミュニティーにおいて大切なことです。役割を固定化させず流動的にすることは、地域を風通しのよいものへと変えていきます。ともすればバラバラになりがちな役割を固定化しないというシステム作りは「成熟」がキーとなります。ある程度成熟した健康な心をもつ大人でなければ、まとまることはできません。足りないとこをお互いに補完しあえる行動こそ成熟な大人の証だと考えます。 自分の暮らす町をより「ここちよいもの、たのしい場所にしたい」と想うことが地域作りの原動力です。だれもがそれぞれに役割があり「ここにいていいんだ」と感じれる場所が「ここちよさ」を生みます。ここちよさは人の心を伸びやかにし、見るもの、聞くもの、感じることが、人に閃きを与えます。さらに身体が動くようになります。「私」というある意味小さな檻から、その「私」が飛び出し「他」と交わろうとします。今までであれば「与えられてきた子供」が今度は他との交わる世界で「与える大人へと」成長していくでしょう。お客さんでなくプレイヤーにもなれるのです。 神事ごとしての「祭」。先祖からの「家」や地域を結束を強める「祭り」そして新しいコミュニティーの結束を強めるための「祭り」へ。時代によって「祭り」のありかたには変化はありますが、やはり人は、明日への不安や恐怖から逃れるために、そして明日への希望を持つために「祭り」を起こしているのだと感じます。 「現代の祭り」は参加者みんなで作るものです。みんながある意味プレイヤーになるのです。この輪がきっとまた誰かをつなげ、参加者をいずれプレイヤーにさせていくことでしょう。「ここにいていいんだ」という心地よさから始まり、さらに「ここにいる意味」をそれぞれが見つけだせれば、「私」はより高みの「私」を見つけ、町はさらに生命力を増します。足りないとこはお互いが補完しあい、癒し、育てる世界へ。「祭り」という場でそれが実践されつつあります。 どんな場所でも暮らしていても人は流動的なものです。流れて、ある時交わって、また流れていくのでしょう。海の潮の流れのように。そして交わった瞬間に「祭り」はおこります。人の心が交わる場所に「祭り」が生まれることは、これからも変わることはないのです。 チャンキー松本 ちゃんきーまつもと 香川県出身。1967年生まれ。大阪で2004年頃、たまたま買ったハサミを使い、独学で切り似顔絵の制作をはじめる。関西を中心にイベントなどに参加。技術を習得をする。2011年から東京へ活動の場をひろげる。 切り似顔絵師として テレビ「笑っていいとも!」Eテレ「シャキーン!」に出演。イベントは「浅草奥山風景」「大阪水都祭」「鳥取藝住祭」「大阪河内長野世界音楽祭」などに参加。 イラストレーター、絵本作家、音頭歌手の顔を持ち、日本各地での「地域おこし」の一環としての「音頭」を制作し「祭り」のプロデュースを手がける。2014年「鳥取藝住祭」に参加。アニメーション作品「もぬけ」を手がける。『盆おどる本ー盆踊りをはじめよう!(青幻社)』の漫画担当。
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