いよいよクラウドファンディングも今日を入れて、残り2日となりました。
取材裏話シリーズもまだまだあるのですが、最終日が迫ってまいりましたので、まとめて一気に書きたいと思います。4回分を1回にまとめますので、長文になりますが、ご辛抱ください。
橋本さんは、その技術を教えるべく全国を飛び回っておられます。とくにここ数年、自伐型林業の全国展開が進むにつれて、あちこちから研修のオファーがかかり、1年の半分以上を「単身赴任」状態で過ごされています。
この本の企画段階から、そうした研修を通して、橋本さんの想いを受け取った方々の取材をしようと決めていました。
本のきっかけを下さった、高知県の岡田竜平さん然り、私自身も含めて、橋本さんが橋本山の外に出たからこそ、私たちが橋本さんという人と出会え、橋本山の存在に気づけたのだと思います。
想いを受け取った方々は、それぞれの立場で、それぞれの考えを持って、山と向き合っておられました。本のなかで、詳しく書いておりますので、この活動報告では、取材の裏側をお届けできればと思います。
島根県益田市匹見町
早朝、匹見町近くにて。山がモコモコしている。
岡田さんを取材してから約2年という時を超えて、2023年10月19日、車に乗り込み、島根県益田市匹見町へ向かいました。
県外取材の1本目。なぜ匹見町かというと、橋本さんに今回の取材でおすすめの場所はどこですか?と何度か聞いたのですが、そこにいつも出てくるのが匹見町でした。「あそこは頑張っとる」そう言われては、行かないわけにはいきません。
ちょうど、橋本さんから今度匹見町で研修があることを聞き、これは好機と、先方に取材の申し込みをしました。
10月18日夜、高知県を車で出発し、夜中走って次の日の早朝に匹見町に到着しました。上の写真の駐車場で仮眠をとって、目的地を目指します。
匹見町を車で走ると、山の雰囲気の変化に気がつきました。それまで、針葉樹人工林の森が多かったのが、匹見町に入ってからは、モコモコした広葉樹の森が広がっていたのです。
ここでどんな林業が行われているのか、ワクワクしながら目的地を目指しました。
お昼をいただいた素敵なアトリエ。丸太の加工品がたくさん置いてありました。
匹見町取材時のメンバーと橋本さん。
橋本さんとの集合場所に迎えに来てくれたのが、上の写真で橋本さんの左に写っている森當奈月(もりとうなつき)さんでした。
2016年に広島から移住し、益田市の地域おこし協力隊1期生として自伐型林業に取り組んできた森當さん。地域おこし協力隊として自伐型林業の世界に入ったこと、そしてその1期生であるということ、どこか私の自伐歴と重なるところがあり、取材しながら勝手に親近感を覚えたのでした。
昨今、地域おこし協力隊という制度を使って、自伐型林業に取り組む自治体が増えています。同じ募集の仕方でも、取り組み方は各自治体によって様々。
佐川町は山林の集約化や資機材のレンタル制度などかなりバックアップ体制を整えていますが、集約事業を民間に委託するところ、森林組合の下請けという形で施業地を確保するところ、自ら山主さんを訪ねて施業地を確保していくという方針のところと、手法やサポートは自治体ごとに異なります。
匹見町はもともと広葉樹が多く、人工林が少ない。その中で自伐型林業をどう展開していくかが課題だと森當さんが教えてくれました。
そんな匹見町で、新たな動きがありました。橋本さんの技術や山づくりへの想いを映像化しようとする試みです。
その中心を担うのが、協力隊4期生である山本千栄さん(上写真の左から2人目)です。映像クリエイターで夫の山本恭平さん(写真左)と協力し、これから橋本さんの映像を撮るということで、取材に同行させていただきました。
特産品のわさびを育てる、わさび田となるところ。水が綺麗な証拠です。
クマに引っ掻かれた跡を発見。
現役協力隊(当時)である松重浩司さん(上写真の右)が施業する現場に着きました。広葉樹林の中に作業道が入っています。佐川町の見慣れた人工林とは違い、広葉樹が多様でワクワクしますが、道を作るとなると、伐倒や抜根なども含めて苦労しそうだなあと思いました。
ドローンも駆使して撮影は順調に進みます。
橋本さんの技術や想いを映像化したものは今までなかったので、そこに取り組んでいる山本さんはじめ、関係者の皆様に尊敬と感謝の気持ちがいっぱいでした。
この取材からしばらくして、完成品ができたと森當さんから連絡がありました。今回は益田市在住者のみの限定配布とのことでしたが、いつの日か公開されることを期待しております。
町有林でDVD用撮影の準備。
ドローンを操る山本恭平さん。
撮影をする人を撮影しています。
これが完成した橋本さんのDVD。益田市限定。
匹見町からの帰り道。印象的な木が立っていたので思わず車を降りて撮影。
福井県の宮田さんを訪ねて
匹見町取材から半月後、今度は北陸取材へ。家族とともに出かけました。
福井市の宮田香司さん、そして金沢市の飯島さおりさんを訪ねる旅でした。
匹見町弾丸取材で、車の夜間長距離運転をやめようと心に誓っていたので、今回はしっかりと前泊をして福井入りをしました。恐竜王国福井ということで、子どもたちを恐竜博物館に送り届け、私は福井市美山地区の研修現場へ向かいました。
恐竜王国福井県。
ここに道が入るのか!というほど険しい場所。
研修場所に着くと、急傾斜地に十数名を超える参加者の方が集まっていました。
宮田さんがその中心にいて、的確にアドバイスを送っています。
人数が多い研修の現場では、安全面にかなり注意を払う必要があります。その点、宮田さんの現場は常にいい意味での緊張感が漂っていました。誰も気を抜いていない。そんな雰囲気です。作業があれば皆が率先して体を動かし、危ない動作につながりそうであれば宮田さんが注意する。初心者の方も多いであろう現場で、この緊張感を維持するのはとても大変なことです。
その緊張感のなかで、いい動きが見られるとしっかりと褒める。そして笑顔が生まれる。
その緩急が絶妙なのです。宮田さんは天性の「教える人」だなとあらためて思いました。
参加者と談笑する宮田さん(黄色いヘルメット)。
ユンボに乗って作業道をつける橋本さん。
険しい場所なので、しっかりと路肩を補強するための木組みを組む。
研修が終わったら、みんなで今日一日を振り返る。
宮田さんの研修には、福井県内だけでなく全国から志望者が集まります。それは、ここへ来ればいい研修が受けられるという実績が波紋となって広がっているからです。
私も、取材を通して、宮田さんの研修を受けてみたい!と心から感じました。そんな宮田さんですが、「自分たちのように10年くらい続けてきた人たち用の研修も今後は開催していきたい」とおっしゃっていました。
橋本さんたちレジェンドに続けるよう、私たちバトンを受けた者も、さらにステップアップをしていかなければなりません。研修が実現したら、私もぜひ参加させていただきたいと思います。
林内には以前研修で使ったのであろう痕跡が。
続いて金沢へ 飯島さんを訪ねる
福井取材の翌日は、石川県金沢市へ足を延ばしました。飯島さおりさんを訪ねるためです。
飯島さんとは、数年前にお電話でお話ししたご縁でした。その時はまだ自伐型林業を始めていらっしゃらなかったのですが、その行動力の速さで、宮田さんの研修を受け、金沢で「レインボーフォレスト金澤」という団体を立ち上げ、山主さんと交渉して林地を集め、牧山地区というところで、自伐型林業を実践されておられました。
飯島さんのすごいところは、「巻き込み力」。生物多様性、木のおもちゃ作り、縄文小屋、竹林整備、組子細工などなど、数えきれないくらいのワークショップの開催を通して、山と人をつなげて、関心の輪を広げておられます。人を巻き込むのが上手い。
それは、飯島さんの施業地にも表れていました。
施業する森へ入っていく飯島さん
坂田昌子さんとのワークショップで作ったしがら。
虫アパートを説明する飯島さん。詳細は本のなかで。
グラグラ丸太橋。
娘も丸太橋に挑戦。
不思議な林内。
縄文小屋に入ってみる。
ウバユリの種飛ばしにハマる。
写真を見ていただければわかると思いますが、山に普段慣れ親しんでいない人が入っても、しっかりと楽しめるのです。
里山ならではの活かし方だと思いますが、「木を伐って出す」林業だけではない、もう少し広い意味での森の活用方法を、飯島さんは模索しておられます。経済的にうまく回るか、それはまだ実験段階だと思いますが、飯島さんは森と人がつながれる環境を作る人、なんだろうなと思います。
その思いは、家族が楽しそうにしている姿を目の当たりにして、確信に変わりました。
とても実りのある北陸取材を終えて、帰路につきました。もちろん、帰りも後泊をしてゆっくりとドライブを楽しみました。
街に近い里山は、家族で来るにもちょうどいい距離感でした。
帰りに食べた福井名物ソースカツ丼。丼ぶりからはみ出している。敦賀のヨーロッパ軒でいただきました。
橋本山と四国の右下木の会社を訪ねる夏の徳島旅
全国取材旅の最後となったのが、2024年8月11日〜12日にかけてめぐった徳島旅でした。
この旅は、子どもたちが夏休みで祖父母が住む長野県に行っていた間でしたので、妻とふたり旅でした。
旅の目的は、「四国の右下木の会社」を取材すること。本の取材を行うなかで、橋本さんの地元徳島でも取材をしたいと相談すると、橋本忠久さんが、それならばと言って紹介してくれたのがこの会社でした。
取材前日に、那賀町の橋本家に立ち寄りました。そこで、面白い話を聞いたのです。
橋本陰歳さんが残した、本田静六博士の新聞記事を集めたスクラップ。
光治さんと延子さん、「ふたりで林業」時代の貴重な写真。
徳島取材が決まり、急遽連絡して、訪ねさせていただいたにも関わらず、延子さんと忠久さんがお時間を作ってくださいました。
その話の中で、最近になってご先祖の墓が見つかった、という話題に。
橋本家のすぐ裏手に、先祖のお墓があるのですが、そこがイノシシか何かに掘られていたそうで、忠久さんが朝になって見にいくと、石ころが落ちていたそうです。石にしてはやけに形が綺麗やぞ、と裏返してみると、なんとお墓だったのです。急いで墓石を洗ってみると、一番古いので延宝元年(1673年)の文字。江戸の初期、5代将軍徳川家綱の時代です。これにより、少なくとも350年前以上から橋本家はこの地で暮らしてきたことがわかったのです。
ご先祖様が、イノシシを遣わして、「はよ見つけろ」と掘らせたのではないかと、おっしゃっていました。忠久さんの娘さんも、この家に来ると、その墓石近くで何かの気配を感じると言っていたみたいです。ご先祖様のパワーすごい。割れずに残って見つかってよかったです。
さらに、延子さんが家の中の整理をしていると、見慣れないものが出てきたそうで、それが上の写真にある新聞記事のスクラップブックです。
延子さんのおじいさんにあたる橋本陰歳さんが残した、林学者・本田静六の新聞記事をスクラップしたものだそうです。几帳面な性格であったという陰歳さん。このスクラップがこのタイミングで見つかったのも、ご先祖様のご意志ではないかと延子さんもおっしゃっていました。
樵木林業の復活
そんな橋本家のご先祖様にまつわる不思議な話を聞いたあと、宿泊地である、阿南市椿泊(つばきどまり)という小さな漁村へ向かいました。海と山が出会う場所。
ここら辺の温かい海岸沿いには、ウバメガシやカシなどの常緑照葉樹林が広がります。
椿泊ののどかな風景。
阿南市を含め、那賀町、美波町、牟岐町、海陽町は「四国の右下」と呼ばれています。そこで木の利用を通して社会を変えようという会社が「四国の右下木の会社」です。わかりやすくインパクトのある社名です。
美波町にあるこの会社を立ち上げたのが、吉田基晴さんです。美波町は、ウバメガシやカシなどの常緑照葉樹を活かした備長炭の生産が盛んでした。そうした林業は、「樵木(こりき)林業」と呼ばれ、江戸時代には、関西方面へも薪炭交易が行われており、照葉樹の永続的な利用と薪炭生産による利潤が街を活気づけていたそうです。
燃料革命による時代の変化とともに、樵木林業も衰退していきます。
それを復活させようとしていうのが、吉田さん率いる「四国の右下木の会社」の取り組みです。
四国の右下木の会社。倉庫をリノベしたオフィス。
海が目と鼻の先に迫る、大迫力の施業現場。
ウバメガシの森を抜ける美しい作業道。
吉田さん(中央)と記念撮影。
集められた木々。
伐った切り株から新しい芽が出てくる「萌芽更新」。
吉田さんは根っからのビジネスマン。ビジネスマインドで課題を解決していきます。
橋本忠久さんを講師に呼び、持続可能な方法で山に道を入れ、萌芽更新を促す手法で木の若返りを促し、伐採した木を自分たちが作った炭窯で備長炭にする。
炭窯も、同じ設計図で、どこでも手に入る材料を使った炭窯の平準化を行い、温度管理をスマホで共有できるようデジタル技術を取り入れ、職人気質の炭焼きの世界を、サラリーマン製炭士が成り立つ仕組みへとシフトさせました。
さらに、地元の食材を地元の木材で作った炭の炎で調理して食べる備長炭を使ったライフスタイルを「地炎地食」と謳って提唱し、都会や海外への販路拡大と並行して、地元でも炭を使う文化を育てておられます。
吉田さんは、「ビジネス」という視点が大事だと言います。環境を守る社会を継続させていくには、ビジネスマインドを持って、個人の力だけでは解決できない問題を社会システムを作ることで解決していく。
私も、個人の力の限界を感じていた時期でしたので、吉田さんの話がとっても心に響きました。
林業が抱える課題の解決方法は一つではない。
場所や関わる人が違えば、それだけ多くの道がある。
多くのヒントをもらえた徳島旅でした。
耕作放棄地を整備して建てた炭窯。
炭焼き職人が炭を焼く姿。
炭窯の平準化について説明してくれる吉田さん。
出来たての備長炭。キーンといういい音が鳴ります。
箱詰めされた樵木備長炭。
徳島旅の帰り道。夕日が綺麗でした。
これで、この本の取材裏話は、ひとまずお終いです。まだまだ話したりないことはありますが、続きは本のなかで。
いよいよ、明日がクラウドファンディング最終日です。
ここまで長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
最後までよろしくお願いいたします。